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教育

2008.09.22

くふうしてけいさんしてどうするんだ

土曜日から火曜日まで会社が連休になったので、結局今年は夏に来れなかった長野県の松本に秋の今頃になってようやく来ております。もう10年近く、毎年1回は必ず訪れる事にしてるので。今年は火曜日まで2泊。

ただ"雨男"の本領また発揮で、今年もまたまた雨(苦笑)。
この旅行の件はまた後日。しかし最近はしょぼいホテルにも無線LANが来ていて便利だね。

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さて本題。
先日細野真宏氏の数学の事を書いた本をご紹介したが、そこに書かれている内容にかなり関係深いと思われるこんな記事が。

「小2の算数が複雑すぎる」という噂

先日、ネットの掲示板で「小2の算数複雑すぎワロタ」といったスレッドがたち、一部で話題となっていた。

件の問題は、
「くふうしてけいさんしましょう」というもの。
たとえば、以下の「52-8」という問題、「くふうしてけいさん」すると……。

<12から8をひいて4→40と4で44>
<52から2をひいて50→50から6をひいて44>

これ、2年生でも暗算ですぐ計算できてしまうもので、大人ならなおさら瞬時に答えがわかるだけに、「なんでそんなめんどうくさいことを?」と思ってしまう。

これ、まさに細野氏の指摘している「小学校の算数に理屈を持ち込みすぎるとかえって算数嫌いが増える」というものの良い例ですな。
教科書を書いている偉い数学・教育学の学者さんが「小学校の頃から式自体の意味を理解させないと中学/高校の数学も得意にならない」と完全に勘違いした典型的な例
だと思います(笑)
こんなごちゃごちゃした説明が延々と教科書にされていると、ほとんどの小学2年生は算数の引き算が嫌になると思う。

算数の「繰り下がりの引き算」というのは、まず最初は確かに「十の位から10を借りてきて」ナンタラカンタラ、という事を学ぶが、じゃぁ最終的に計算する時にそんなのいちいち考えてないだろう。上の問題なら、1の位の「2」と「8」を見て無意識に1の位が「4」、という思考を働かせる(「1の位が2-8なら4」という式と答えの数字の組合せを覚えてしまって、それで暗算する)のが普通の人の計算の仕方だと思う。

細野氏が先日紹介した本で書いていたのは、小学校の「算数」は、中学以降の数学を、「数学的思考力を付ける」という意味で理解しようとする際に、どうしても最低限の基礎知識として身に染み付けておかなければならない計算の方法・数字の扱い方を学ぶものだと。
引き算の繰り下がりもさることながら、一番代表的なのはかけ算の「九九」。あんなの掛け算の理屈を1個1個考えて毎回計算してる小学生なんて存在しないはず。
だから、算数の実力を付けた「究極の姿」は、ドリルとかで繰り返し問題を解いて暗記するなり、暗記した事を組合せる事で計算を解く作業に慣れる事で、ある意味「いちいち理屈を考えないで答えが出せる」様になる、というものであって、根本的に楽しい物では絶対無い、はっきり言って面白くない教科だ、と言い切っていた。
その代わりこの算数の力を「つまらないけど我慢して」ちゃんと小学校卒業までに身に付けてさえいれば、中学・高校・大学で学ぶ数学の理解力は圧倒的に高まる、そういう重要な位置付けの教科であると。個人的には、自分の生徒時代の経験を考えても、こっちの細野氏の意見に同意。(一応わしは数学は滅法得意で、高校入試も満点だったし、センター試験も数学I、II(当時)2科目とも満点でしたよ。自慢だけど(爆))

極端に言えば、中学・高校になってそういう「数学を解ける」頭が出来てから上の様な引き算を始めとした「算数で勉強したこと」の本当の意味を後戻りして考えたって、実際のところ全然手遅れでも何でも無いと思いますよ。
というか、みんな無意識に結構そういう事を頭の中で実践してるんじゃないですかね。

今から考えると、
最終的には「頭の中に描いていくらでも暗算が出来る」状態に仕立て上げるのが目的と言える「そろばん」
とか、
ある一定の点数を取れるまで次のステップには行かせずにひたすら繰り返し計算の練習をさせる「公文式」の算数の勉強法
などというのは、「算数力を付ける」事で、最終的に「数学力」を身に付ける為の、実は究極の方法なのかな、なんて思っている。(自分は子供の頃どっちもやってなかったけど)

2007.03.31

昔から良く分からんかった教科

教育再生会議の分科会、「道徳を正式教科」で一致(読売新聞)

「道徳の授業」って確かに小学校でも中学校でも大体月曜日の1時間目とかに割り当てられていたけど、特に中学校の時なんて完全にホームルームと同一定義だった覚えがある(w

大阪府だけかも知れんが、一応「道徳の教科書」として同和教育の「にんげん」という名前の、どの学年向けも表紙がおどろおどろしいイラストで、表紙だけ見たらホラー小説の本かと思うような読み物の冊子が配布されてはいたが、それを取り扱う先生はごく少数だった。

まぁ教育再生会議の先生方が提案する動機は分からんでも無いが、最大の問題は、じゃぁどの先生がその授業を責任を持ってするの?で、どう生徒の成績を評価するの?ということだろう。
それこそテストで成績を決められる様な類のものではないし、そもそもその記事が載った、その同じ新聞の社会面の記事にこんなのが載っているんだから↓(爆)

「切り刻んでやる」中学教諭が生徒に暴言、文書訓告(読売新聞)

女子高生5人にわいせつ行為、運動部顧問を懲戒免職(読売新聞)

お前らの道徳教育が一番先や
とツッコミたくなりますわ(ww

まぁ、この前ゆとり教育のネタで書いたが、こういうとんでもない先生というのは特に最近急増した、というわけではなく、何十年も前から必ずどこの学校にも何人かいたというのが現実で。(もちろん犯罪を犯す様なのは論外だが)

そういう人も混ざった、「教師」という変わった大人達の集団とのうまい付き合い方・自己防衛の仕方を日々の学校生活から「経験」として身に付けていく、それも昔からの学校教育のとても重要な「隠れた目的」だと思う。まさに一種のOJTですわ(w

机上の授業で道徳なんて取りあげてやるより、よっぽどそちらの方が社会に出る為の勉強としては重要だと思うんですけど。
そういう事に、保護者を含めた生徒の周囲の大人達が全然気付いていなくて、学校の授業内容だけに多くを求め過ぎている感じがする。

2007.03.18

ゆとり教育

「ゆとり教育」見直し、賛成8割=免許更新制導入求める−時事世論調査
 時事通信社が18日まとめた世論調査結果によると、学力低下の原因と指摘される「ゆとり教育」について、約8割が見直しを求めていることが明らかになった。また、終身有効の教員免許に関しても、更新制導入を求める意見が約8割に上った。教育現場への根強い不満が浮き彫りになった。


もう、10年も20年も前から批判の対象にさらされている感のある「ゆとり教育」なるもの。
これ、良い悪いの議論って、最近何だか不毛だなぁ、という感じがする。

自分が小学生や中学生の時と、今の教育がどう違うのか、というのは正直全く分からない(周囲に小学生も中学生もいないので)。
最近、教科書のレベルが下がった、円周率が3になった、などとは良く聞くが。
でも自分の時から、小学校の授業の一環の中に「ゆとりの時間」とかいうのがあったので、ちょうど自分の世代が「ゆとり教育」の始まった時期あたりなのかな、と。
まぁ、その「ゆとりの時間」に何をやっていたかなんて全く記憶に残っておらず、本当に必要な時間だったのかという疑問はあるが(w

私の場合、特に中学生の時(今から20年位前)は、かなり特殊な生徒だった。
高校受験の時に私立の進学校を目指して、地域のトップクラスの進学塾にほとんど毎晩(土日も含めて)電車で1時間くらいかけて通う、という日々であり、正直学校の勉強にはほとんど取り組んでいなかった。授業中は、夜の塾の勉強の疲れでほとんど寝ていた(爆)
クラブ活動も、小学校の時は(塾に通ってなかったので)色々やっていたが、中学校の時は2年生から帰宅部。
塾の「一流私立高進学向けの」レベルの英・数・国・理とかを勉強さえしていれば、はっきり言って中学校の中間テストや期末テストは当日まで何も勉強しなくても点数はほぼ80点か90点台は取れた。数学は10分か20分で全問解けて、時間が終わるまで見直しを5回位繰り返していたので(w、大体100点だったし。せいぜい社会のテスト前に教科書の内容を前の晩に丸暗記する、程度しか、学校のテスト勉強はやっていなかった。
受験本番の1ヶ月か2ヶ月前になると、もう毎日、学校に全く行かず、朝から塾に行って受験向けの自習をする、なんて事も経験した。
先生からしたら、こんなに取り扱いの厄介な生徒もいないだろう。
まだ「いじめられて登校拒否」なら、相談相手にもなれるが、こんな生徒は学校の先生が相談相手には全くなれず、ただ休み続けるのを黙って見るしか無いわけで(^^;;)。「通いたければいつでも通えるが、別の目的で休んでいる」わけだから。

ただ、「学校が嫌い」「行きたくない」と思った事は全く無かった。苦手な体育(通知簿は大抵1か2)の時間のある日がちょっといやだった、程度。
クラスの他の生徒とも仲は良かった、と自分では思っている。とは言え、まぁ「あんな生意気な奴とは付き合いたくない」という人間はそりゃいたはずだが、でも直接そういう事を言われる事も無く、当然こちらは誰がそういう奴かは知る事も無かったし、気にもしなかった。
スポーツや美術の出来る同級生に対しては(自分にそっち方面の才能は全く無かったので)ちゃんと敬意を払っていたつもりだし。
ある意味「上手く」学校生活を過ごせていたのかも知れん。
まぁ、そういう「やりたい放題」をある程度学校側が目をつぶってくれていた、というのは感謝しないといけないかも。
(中には生徒をがんじがらめにして、一切そういう「学校の敷いたレール」から外れる事を許さない様な校風の学校も、当時から地域によってはあったと聞く)

こういう、ひねくれた中学生時代を過ごした自分の経験から言える事は、学校の教科書のレベルが上がろうが下がろうが、関係無い奴には関係無いんじゃないかな?という事。
「ゆとり教育」で議題にあがるのはあくまで「学力」に絞られた話、という理解だが、教科書のレベルが下がる前から私みたいな生徒は少なからずいたわけで。大体どの生徒にも内容のレベルのあった教科書、なんて作る方が初めから不可能。逆に、内容を簡単にしたって「100%全員が付いて行ける」というのもそれは理想論で現実的には無理だと思うし。
だから正直、教科書のレベルの上下って、生徒個別の学力を個々に見ていけば、そんな重要な要素でも無いのでは、という気が。

1点、ゆとり教育の問題を挙げるとするならば、「単に教科書による勉強のレベルを下げる」だけで済まさず、「別にこれ以上難しい勉強が出来なくても恥ずかしい事ではないから、世間で生きていく為にはこれ以上の勉強はしなくても良い」という誤解を含んだメッセージを生徒達にこれまで以上に暗に与えてしまう危険性がある、というところだと思う。
学力の低下の原因は、教科書のレベルの低下よりも、むしろこちらの、精神面に与えている要素・「向上心を持たせない」点が大きいと思う。
(世間に出たら、「自分がものを知らない」という事実を知ってしまう事って、結構恥かしいし、悔しいものである。こればかりは社会人になってからの「恥をかく経験」に勝るものはないと思うが)

いわゆる「学級崩壊」の問題は、生徒の精神年齢の低下、という要素が大きいと思うが、もしゆとり教育がこういう問題を引き起こしているとすれば、上に書いた様な、生徒に向上心を持たせない雰囲気、というのが大きいのでは。
学級崩壊は先生の指導力低下が原因、という意見もあり、教員免許更新制の議論もそのあたりから起こっているんだとは思うが、私の小学校・中学校の頃から、指導力の無い先生・人間的にどうかしている先生(笑)というのはどこの学校にも必ずいた。
でもそういう先生だからって、クラスの生徒が全く纏まり無く授業が崩壊する、という事は無かったと思う。
当時は、生徒は生徒で結構大人っぽい面があって、そういうダメダメな先生を陰では馬鹿にしたりからかったりしながらも、まぁクラス自体、1年間2年間はこのメンバーでやっていくわけだから、生徒同士は仲良くまとまっていこうや、という様な意志が大体ほとんどの生徒に無意識にあった、と思う。
個人的には、小学校5,6年がまさにそういう状況だった。全く性格的に融通の利かない、非常に扱いづらい女の先生だったが、生徒同士は陰で先生の批判をしながらも(笑)、結構仲良く、うまくやれていた。

最近の小学生や中学生って、そういう風に生徒同士で自主的にまとまっていこう、という意識が無くなってるのかなぁ?
そうだとすれば、直していかなければならないところは、そういう「精神面を成長させる」為の教育なのかも。
これは、単に家庭のしつけだけで解決する問題でも無い気がする。生徒間の集団生活をどう過ごすか、というのが中心の問題だから。
難しい問題だし、解決策が何か、というのは自分でも今は分からないけど。

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