論理的にものを考える、ということ
すなわち、この夏、殺人的スケジュールの合間を縫ってフジロックに1日だけ行って彼らを見て来たわしは「勝ち組」という事でよろしいでしょうか(笑)
まぁ、数年後にサマソニあたりにあっさり「再結成」とかで出て来そうな気もするが。
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この前に受けた研修で講師が言っていた事で、なるほどと思った事がいくつかあって。
まず1つが”天才”という言葉の定義。
頭の中に入っているアイデアというのは誰しも色々、数多くあるはずなのだが、大事なのはそれをちゃんと「目に見える形」で外に出すことが出来るか、という点。で、その「外に出す」形態はほぼ100%近くは「言葉」を使うことによって、であると。(例外としては、絵とか形とかの「イメージ」が使われる例もあることはあるが、その場合も「言葉」の補助は不可欠)
で、”天才”とはどういう人かというと、生まれつき、特に意識・努力をしなくても、頭の中のアイデアを「すぐに」「いくらでも」外に見える形に出す事の出来る能力を持った人、という事だ、と。なるほどなと思った。
そして、そういう”天才”の、分野に関係無く全てに言える共通のキーワードは「早熟」と「多作」。
エジソンは伝記本で恐らくほとんどの人は子供の頃のエピソードは知っていると思うが、小学生時代からその天才の片鱗を現していて、かつ、とてつもない量の特許を出している。
モーツァルトも全く同じパターンだわな。最近の音楽業界で言うとマイケル・ジャクソン。
日本の有名人で”天才”に分類されるというと、やはり信長とか坂本龍馬、学者方面だと平賀源内あたりか。
で、こういう人達は世の中の大多数の人とは違う世界を持って生きているために、既存の社会に完全に適応出来ない人達が多く(エジソンも小学校をやめさせられた)、結果的にその社会をたった1人の力で変えてしまう事が出来るが、一方で悲惨な結末を迎える人がかなり多いと。モーツァルトやマイケルや信長や龍馬や平賀源内がどんな最期だったかを見れば分かるわな。
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ただ悲しいかな、そういう”世界を変えられる力を持つ天才”は人間の総数に比べてものすごく数が少なく、我々がそうである確率もものすごく少ない。
じゃぁ我々凡人が彼らのレベルまではいかずとも、頭の中のアイデアを、極力頭の中に取り残さずに外に言葉を使った形で表せる様にするにはどうするべきか。
それには
- とにかく書き出す(何でもメモを取る)、すなわち「形になっていないアイデアを、目で見える”言葉”に変換する作業をする」くせを付ける
- 論理的に筋道を立てて何でも物事を考える様にする
のが重要である、と。
2つは違う様であって実は同じ様なもの。なぜなら論理的に考えるというのは、事実・仮定及びそれらを結ぶ筋道を「言葉」に変える、という作業でもあるから。
自らの力で言葉に出来ない、外に出せないと全く意味は無い。
既に外に出された物に対して評価する、と言う作業は、誰だって才能が無くても、それこそ「見える情報だけを頭に叩き込んでおく」だけでも出来てしまう作業だから。
それは「コロンブスの卵」を見て「そんなの誰でも出来る」と言う人間と同じである。そういう人間は一生自分では何も結果を出せずにそういう事を全ての物に対して言い続けているだけ。悲しいことに、世の中にそういう人が多いのは、それこそコロンブスの時代からの事実。
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さらに、論理的に考えるには当然「どういう切り口・軸(ものさし)で色んな事実や仮定を評価するか」という事を常に考える必要がある。軸(ものさし)という点では、その軸に並ぶ物でモレが無いか、それぞれの比較物がより具体的かを常に考える事が重要。いわゆるMECEってやつだな。
それもそうだが、より問題なのは「ものさしと切り口」の場所。
これはとにかく同じ物を色んな角度で切ってみる、という作業をひたすら繰り返すしかない。そういう事をするくせを頭に付けておかないと、我々の頭の中にある「バカの壁」を崩すことは出来ない。
それはなぜか。
まず、「バカの壁」を崩すには、評価の切り口を「バカの壁」に一致させる事が必要。
ただ、じゃぁその切り口がどこにあるか。それは「とにかく色々試し切りしてみる」以外には方法は無い。だって「自分では自分の頭のどの場所にあるのか分からない」のが「バカの壁」だから。
目で見えない背中のかゆい所を掻くのに人はどうしますか?「かゆい所」の場所を特定する為にいちいち座標の位置を計測して、なんて情報収集をする人はいないだろう。だれだってまずは行き当たりばったりでも「適当に掻いてみる」はずだ。その方が絶対かゆい所に「より早く」手が届くから。
実は普段の仕事もそれと全く一緒で、情報収集ばっかりしてると、本来その仕事や研究は何の目的でやってるのかがあいまいになっている事ってかなり多いのでは。
「目的が何かを常に意識」して、「とにかく仮定を含めた結論を出してみて、さらにそれに至る仮定の部分を情報収集によって精度を上げていく」という”結論志向”で仕事をする方が間違い無く速く結論を出すことが出来るし、目に見えない潜在的なニーズも見付けやすくなる。
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そういう作業を頭の中で行うくせを普段から付けておけば、それをやってない人と比べて「頭のアイデアを他の人よりたくさん外に出す事が出来る」、すなわち「しまった、それなら出来たのに」と思う頻度を下げる事が出来ると。
「しまった」ってのは、「頭の中にそもそもあったアイデアが自分が出せないのに、自分と競合する相手が”先に”出してきた、それを目や耳で知った為に”アイデアを出す事が結果的に出来ていない自分”に気付いた」そういう時に発する言葉。
で、世の中のビジネスというのは基本的に同じレベルの能力の人が競合しているわけだから、ほとんどが「しまった」の思い・思わせ合いである。
その逆が「まいった」、すなわち「自分がどれだけ無限の時間を掛けても出す事の出来ないアイデアを相手が出してきた時」だが、これは元々自分の能力が相手より明らかに劣っている事を示す訳だから、普段「まいった」ばかり思っている人は、本来そのビジネスを続ける資格が無い(他者の競合相手になりうる力を持っていない)証拠なので、即座にそのビジネスから撤退しないといけない。
そもそも世の中の全ての業界は、競合相手の間に「圧倒的な能力差がある」ままで何年も続く事は有り得ない。圧倒的に能力の高い人は普通は自ら他の「もっと平均的な能力レベルがその人と同等に高い集団」に去っていくから。
スポーツ・特に野球の業界が一番分かり易い。日本のプロ野球からメジャーに行った野茂やイチロー、松井を見れば分かるだろう。それが本来の正常な「人間の集団」の姿。
そういう意味では、日本の大相撲の場合、近年は「神事」の要素が薄れて「スポーツ」の要素が濃くなった為に組織全体がおかしくなった、とも言えるな。圧倒的に強い人がずっとそこを離れず上に居続け、弱い人がずっと下に居続ける状態が延々と続くと、上も下も互いに競合しようという意識が薄れてしまう、それが今の状態なんじゃないかと。
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で、以下は「その後」の実体験の話。
週末会社に戻って来たら早速「今日中にアメリカの支社に回答しろ」というタスクをいきなり突きつけられて、職場にはそのネタになる検討までは進めてくれていたのだが、纏めて回答するのはお前でやれと。
早速やってみたのは「そのメールでアメリカから問い合わせのあったことを自分のノートにもう1回書き出してみる」という作業。それをやったら結局「何を答えれば良いか」という”目的”が目に見えて明確になったので、纏める作業は相当短く済んだ。
とは言っても雑用とか何とかで半日潰されたので、結局終電まで帰れなかったが(苦笑)
こういうのを実体験として感じるって事が大事よね。それが無いと、座学だけではなかなか体が覚えてくれない。
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というわけで、まとめると
- とにかくまず書き出してみよう。
- まずは仮定が混じっていて良いから結論を「叩き台」で出してみよう
- 色んな切り口で考えよう
てのがビジネスに限らず、社会での活動で自分が結果を出す為の根本的な所では大事だ、という事ですな。